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| 2004/11/06/土 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 計算機の『√(根号)ボタン』を押し続けると、近似計算を繰り返すことによってどのような数字でも最終的には『1』という結論に到達する。 これと同じように、この世界を人間という近似的な計算式に当てはめると、どのようなことを修めても、最終的な結論は『1』という結論に到達するような気がする。 私の尊敬する人物に『河井継之助』という人物がいる。この人は小泉首相の演説中に登場して一躍注目を集めた『米百表』の小林虎三郎の政敵だ。河井が存命中は河井が長岡藩を牛耳っていたが、北越戦争で新政府軍と交戦した際に継之助が戦死したため、小林がその後の長岡藩の藩政を司った。 閑話休題。 この継之助は、司馬遼太郎氏によれば『自分の人生を最後まで客体として扱った人物』とされている。『立場論』とも言うべき人生論を持っており、彼の能力としては開国論者であり開明論を持するほど先見の明があったが、徳川譜代の長岡藩士として生まれたからには長岡藩として-徳川家譜代の藩として-という立場をついに捨てなかった。 西郷隆盛からも認められていたほどの敏腕政治家であり、長岡藩の改革を急激に進展させ、8万石に満たない国力であるのに当時まだ日本に3門しか入っていなかった『ガトリング砲』を2門も装備していた。戦争のためではなく、政治のためには発言力が必要であり、そのためには武力の裏打ちが必要である、という考えからであった。 最終的には新政府軍と開戦してしまった。当時継之助が考えた『中立』などというものが机上の空論であるということは、徹底した政治家(実行家)であった継之助には無論解っていただろう。 しかし彼はその考えを捨てなかった。日本や世界の進運を考えれば、間違いなく新政府側に組するべきであったし、そのことも考えとしては彼は理解できていただろう。しかし彼はその道は選ばなかった。滅亡を選んだのである。 『徳川家譜代の長岡藩』の立場(筋)を大切にした。 それがために彼の愛した長岡藩民は敗戦に付き合わされることになった。彼の墓が何度となく壊されたというのは仕方がなかったであろう。自分自身の思想のために国民を犠牲にまでしたのである。 しかし、多くの継之助ファンがいるのはなぜだろうか? 『与えられた情況の中で最善を目指して精一杯生きた』からではないだろうか。 継之助は心の中には『開明論』という新政府と一致した考えを持っていた。しかし血肉は旧来徳川の恩顧を受けており、それを捨て得なかったのである。 生物で言えばこういうことになる。 進化の可能性(理想)を内包しつつ、表現型(歴史を含む現実)は強固に守る。 生物は個体としては正確に自己を複製しようとしている。しかし現実には進化への試行であるといっていい。この大いなる矛盾は私たち人間社会でも同じではないかと思うのだ。 (注:『理想と肉体』という対置と『遺伝子と表現型』という対置を擬していることを理解していただきたい)。 冒頭の最終的な結論との一致は非常に美しい。自己は自己のためにあるのではなく、その未来のためにある。いや、『ため』という語感は誤解を招くかも知れない。 『自己は自己でなく、未来である』 つまり『死んで生きるから生き生きと生きている』ということだ。大いなる理想を抱きつつ、それがためにそれと矛盾する現実をしっかりと生きる。その相克のひずみが私たちの人生の苦悩であり、そこにこそ『人間』という真性が顕著に見られると思う。 生まれた瞬間から我々は生き始めているのではない。死に始めているのである。 自分の体というものは自分という生命を表現する現段階での表現型でしかない。そういう観点から考えると、今起こっていることなど、全てが肉や物質の問題でしかない気がしてくる。悩みなど精神的問題はやや高尚に感じるかもしれないが、結局は脳内の電位変化の総体であって、肉体的問題の一様と捉えて差し支えない。 さまざまな日常の悩みや苦痛、快楽や幸福などはあくまでも肉の問題である。文学的に表現すれば肉体という道具の煩悶であって、霊の戦慄ではない。 しかし結局は私が私の考えを言葉や行動などによって伝聞しなければならないように、霊というものは遺伝子がその表現型に効力を持つがごとく間接的である。 考えてみてほしい。私という人格が別の環境に生まれていた場合でも、私は同じ思想を持っただろうか? 同じ価値観を持ちえただろうか? 答えは明確だ。 持つわけがない。 つまり私というものは削り込んでいけば『黒田十兵衛』を構成するもろもろの要素-親・友達・恋人・趣味・能力・記憶・…名前-というものを通して、投射的にしか存在しない。遺伝子が表現型を通してしか自己を現すことが出来ないように。ちょっと違う感じだが、『黒田十兵衛というハードに、どういったソフトや周辺機器を持たせるか』ということにもやや似ている。コンピュータが、板だけでは何もできないという点において。 だから継之助は自分の理想ではない肉の決断に全てを賭けたのではないかと思う。自分の思想ではそうすることが本位ではないが、肉体という『立場』を超えて霊が直接に世の中に訴えうるという蒙昧な迷信に彼は陥らなかった。あくまでも現実世界は肉の世界であった。 理科学では生物学や医学が、文学では社会学が、社会では企業戦略やミームが、全て同じ『1』に向かっているのが我々末端の人間にも解るくらいになってきた。 全ては投射的にしか現れないということが。 あたかもある大哲学者のイデア論のように。 だから私も私がくっきりとこの世に投射されるべく、私の立場=表現型を構成する全てを大切にしていこう。私が私であるために、私の思想と相反するこの脆弱な精神・行動力などを伴って、黒田十兵衛という世界を思い切りドメスティックに生きてやろう。自分と世界との区別を明確につけることが、周囲に対する最大の礼節だと考えよう。 …うーむ。まだ私の中でこの考えは早産だったみたいだ。なんだかうまく表現できないなぁ^^;; いいたり得ないことは多いのだけど、後日更新した考えや文章を明らかにするとしてせっかく書いたので消さずにおいておきます。2004年11月7日21時04分現在の私の考えとしてとっておこう。 一応日記だし(爆 |
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| 2004/11/10/水 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 寄生獣という漫画がある。一見気色の悪いホラー漫画だが、テーマとしては『生物とは何か』ということに挑戦したものだったと思う。 宇宙から来た寄生生物は、人間に寄生して他の人間を捕食していく。しかし彼らは知性を持ち、『自己は何者(物)か?』を探り始める。 そして重大な結論、『私たちは自己を複製する能力がない』ということに寄生生物は絶望する。 思えば我々はこの自己複製 -いや必ずしも『自己』ではないが- という永続性に大きな意味を感じている。 たとえば我々ガタ飼育者が大きな関心を持つのは一般的には累代飼育、すなわち次世代を残していく飼育である。感じたことはないだろうか? 大きな幼虫が大きな成虫に羽化することを望み、そして羽化した瞬間の大きな喪失感を。 あるいは価格は♂の値段に左右されるのに、♀が先に死んでしまった場合の♂に対する絶望感を。 人間の分類法はたくさんあるだろう。肌の色や言語・宗教の違い、生活習慣、地理的隔離性… 理科的なものの他に実行家か思想家か、論理派か感覚派かなど。。。 私がもうひとつの分類に上げるとすれば『標本家』か『飼育家』かというものだ。 前者は生命の『完成』を求め、後者は『変化』を求めていると言うことは乱暴に過ぎるだろうか? 最近私は一人の研究職の方にお話を伺った。その方がおっしゃるには 『遺伝子かく乱などというが、では今の種が固有であるということはいつの時点で決定されるのか?』 彼に言わせれば生物の分布域の拡大、それに伴う競争や遺伝子のシャッフルは生物としてその本質的なものであり、人間が認識した現段階を持って『保存』につとめるというのは生物本来の姿に対してまったく反対の行動ではないか、と。 彼は『あえて労力を払ってまでして混ぜようとはしないが、変化を悪として認識するのは行き過ぎではないか』と主張していた(←違って聞いてたらごめんなさい^^;; ) 注意していただきたいのは、彼は間違いなく『多様性の信者』であるということである。多様性を否定して競争の結果少ない優良種が残っていけばよいし、そういう競争こそが生物の本質だといっているのではない。むしろ生物の進化のためにはいつでもそういった攪拌があったではないか、神の手を信じろといった楽天的なニュアンスが強い。 生物学(つまりは経済学)の中では基本的な考え方であるが、A>B>Cの関係であるとき、そのリソースが極限的であればいずれはAが優勢になってくる。そのころCはすでに絶滅しているかもしれない。 しかし、論理的にもありえないが、話を単純化してAが優勢な個体数を構成したとき、限定的なリソースの中では全体がAが優位に立ってくるかもしれないが、より実際的な開放的な状態ではAしか存在しない環境は、他者によって-または環境変化によって-すぐに転覆させられてしまう。 こういった『浮動』を生み出す行為が『複製』ではなく『生殖』なのだ。 もし人間が単性で自己複製が可能であったなら、私は今までこれほどたくさんの失恋経験を積み重ねることなく、他者との交流も自己の『瞬間の利益』のためだけの人間関係を構築したであろう。 次世代というものを考慮せず、自己、あくまでも現在の自己を保存していこうという感性で極論していけば、高校生などの軽い性感覚は市民権を得なくてはならない(刹那的で、『今楽しければそれでよい』という感性の人間関係の極論であって、性を買い売りすることそれ自体の是非を論じているのではない)。 ある人の相談に『異性の友人に交際相手がいると言ったら「では用はない」と縁を切られた』という内容のものがあった。 一見すると冷たいようだし、事実そういう部分もあるだろうが、『用はない』と言い切った人物は『発展性のない付き合いをするつもりはない』と判断したととれぬこともない。 『状況によって』という常套句がつくことによって、全てがあやふやになってしまうが、状況によっては発展しない人間関係を維持していくことが難しいという感覚も許されるのではないだろうか? それは性の悦楽をのみ考えたのではなく、むしろその本人を『愛する』が故ではなかったか。 女性の中には『なぜ私の彼氏はAVを見たりするのか』と嘆じたり攻撃したりする方々も見られる。しかし私は男の側ながら男を弁護しておく。 あなたはそのような性の道具として扱われたいか? 男性があなたを愛するとき、それは性欲の発動に過ぎないだろうか? 我々男にとって性欲は直線的で非常に扱いやすい。ただAVなどで『処理』してしまえばよい問題だ。そんな『処理』に愛する女性を供するなどということは、我々日本男児のするところではないのである。 我々が女性と臥所を同じくするとき、仮に避妊をしていたとして、それは間違いなく『子作り』である。 それは性欲ではなく、『新たな生命 -内包される変化と永続性- 』に対する予感に他ならない。 まさしく我々は始まりにして結末、『アルパにしてオメガ』なのである。 …最近の私の日記って、書き出しと結末に整合性を著しく欠いているような気がするなぁ^^;; |
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| 2004/11/11/木 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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