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2005/07/18月
6月から今まで、身の回りや自分自身に変化が多く起こっている気がしてます。まぁでも私のような年齢の人間は大抵が『忙しい忙しい』と口癖のように言っているわけで、変化が多いといってそれはそれほど奇異なことではないのかもしれません。

上司や自分の仕事上の責任が変わったという立場の変化も大きな土台だったろうと思います。

昨日、一昨日と友人と会って話をしました。

一昨日は『何とか今の自分を変えたい!』って思ってる友達。
昨日は『何とか今の自分を変えたい!』って行動している友達。

一昨日の友達は言うのです。

『自分を信じなければ何も出来ないということはわかるが、何もしなければ自信なんて出てこないからどうすれば良いのか?』
と。

まぁ確かに循環論法ですわな。私の『鬱スパイラル』と良く似てます。私の助言はといえば『小さい突破できる目標を立てて突破するということをくり返すしかないんじゃないか?』ということでした。
するとスパイラルに入りまくっているその人は言うんです

『例えそういう目標を突破しても、その上がいると思うと成功ではなかったのではないかと思えてしまう』

目標は低くというのが条件なわけですから、そりゃ外に目を向ければその結果なんて取るに足らないことはありうるというか当然なことです。こうなると論理的にはすでにお手上げです(笑

私の姉が赤ちゃんを連れて実家である我が家に帰ってくることがあります。最近歩くことができるようになりました。

よくよく観察してみると、『歩く』というバランスをとって二本足で前進するという行動も、非常に単純な反射で構成されているのだなぁと気づきます。事実は知りませんけど^^;;

私の見立てではまず赤ちゃんっていうのが直立すれば頭が重いので前のめりになります。前のめりになると『こけちゃいかん!』って反射して片足が出る。でそれではまだ慣性を支えきれない場合、さらに反対の足が出て… ってくり返すことが『歩行』なんじゃないでしょうか。だから歩き始めた赤ちゃんはまず立ち上がって、歩き出して、加速していって、ドスン!とこける。でまた立ち上がって…

少なくともバランスをとるために『論理』を用いていないことは確かです(頭の重みを物理的に使っているとは言えそうですが^^)。頭を使うなということでは当然ありませんが、人間やったことがないことには、どんなに頭を使ったってそれが『実感』につながるわけないと思います。

だから現在おかれている状況が思わしくなくて、戦略的な現状分析も出来ないというのなら、『とりあえずリーチ!』よろしく出たとこ勝負にいく以外に動かす方向性はないと思います。

もちろん私もそうですが悩んでいる人というのは『現状認識が十分出来ている』と思い込んでいる場合が多いです。それは思い込みです。もし本当に『現状認識』が出来ていて、やりたいことがあるのであれば、解決策や動く方法などはものすごく単純に導き出せます。例えば『何々が出来ない』というのであれば、それを教えてもらうところを探せばよい・もしくはあきらめたらよい、『誰々に好かれたいが現状では無理だ』と思うのであれば好かれる状況を作るかあきらめれば良い。それだけではないですか。

『いやいや問題は簡単じゃない』と思った人。もちろんこれにも私含む。


その言葉が魔法のように物事を複雑にする。

まずやってみて、捨ててみて、あきらめてみて、それからではないかなぁと思う。

冒頭に書いた友人で後者のような生き様を評価しているのは間違いありません。自身にやりたいことがあったら、まずは挑戦! なんて私は言いません。そんなの普通一般の臆病な我々に出来っこありません。みんな挑戦は怖いんです。では何からはじめるか。


学ぶことです。


怖いとは『それについて知らない』というのとほぼ同義です。例えばゴキブリが怖いと思えばゴキブリについて勉強し、上司が怖いと思えば上司について観察・研究を行ってみたらよい。結局は恐怖というものは怠慢から生ずると思うのです。知れば怖くなくなるということを知っていても知ろうとしない。それは恐怖というよりもむしろ怠け心ではないでしょうか。

先ほど悩みはほとんど悩みではないと書きましたが、それはこういう理由によります。同じ頭と時間を使うのなら、悩んでいるより勉強した方がよい。

だから『まずは挑戦!』は違います。後者の友人は私にこう言いました。



『リスクを冒すのが経営者ではなくて、リスクを消せる人が経営者だと思います』(←彼は私より年下だったので丁寧語ですw)



名言すぎる。。。

知れば、リスクは消せます。

『自分は経営者になんてならない』って声も聞こえてきそうな気がしますが、人間は最低でも自分自身の経営だけはしていかないといけません。嫌がっていても誕生日はきますし、勝手に成人して、勝手に社会のシステムに組み込まれなければならなくなるのですから。いつまでも夜中にはいられないのです。いつかは夜が明け、照らされる羽目になるのですから。自分自身の存在から逃げ出すことは出来ません。

私が一身上の都合から『裏技』にて自分から逃げようとしてそれに失敗したとき、私の友人の一人は存在に恐怖する私にこう言いました。

『お前はもっと勉強しろ!』

そのときには私は私を確保するのが精一杯で、その言葉の意味がまったく解りませんでした。でも今はわかります。世界に自分をさらすということが恐怖というのであれば、世界を知って自分を知れば何も怖くない。あー、書いてるうちに孫子の兵法に行き着きましたね(笑

『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず』

私とて心の中のダークサイドが訴えてくるのです。
『お前は一生懸命サイトの更新など考えてるが、同頑張っても所詮は…』
『他のサイトを見てみろ』
『どうせダメなやつだ』
とか。

怠ける道は必然的に『同志』も多いですし行きやすいです。でもダークサイドに落ちてはいけません。


毎日朝を迎えることは場合によっては怖いことかもしれません。




願わくば昇ってくるのは太陽の力ではなく、地球それ自身の回転によるのだと気がつきますように。


2005/07/23/土
私が↑の日記の事件でどれだけ打撃を受けたかといえば、ついつい『何時間前に食事を摂ったか忘れた』くらいの拒食に陥るくらいでした。このまま放置すればオオヒラタケ菌糸瓶の中にほうりこんだオウゴンオニ幼虫のように確実に落ちてしまうところです(笑

どういった状況かということを具体的に述べますと、

『1日で5Kg減ペースの体重減』

ということでして、この信じられない結果は、『失恋ダイエット』として、かなりの一般性のある手法として知られているわけです。

単純に考えると私は失恋してから11日で体重を失ってしまいます(笑

つまり体重をy、経過日数をxで置くとしますと…

y=-5x+55

という数式が安易に脳内構成されるわけですから。


公的な機関を含め、大概の統計感覚はこの程度だと思って差し支えありません。分散を考慮しない『平均』とかそういった類です。その論法でいけば私が7月31日をもって、体重0を達成することは真であるということになってしまいます。
実は私も周囲にはそういう冗談を言ってました。

しかしこれは明らかにおかしいですよね。体重が0になることももちろんありえませんが、最初の体重から5Kg減となったのには、私の元の体重も関連があったはずだからです。つまり、5Kg減の事実は『体重の1日あたり1割減』とも捉えることができます。

ということを私の浅学かつはかない頭脳で考えて見ますと、先ほど述べた数式y=-5x+55は体重55Kg⇒50Kgに至るまでの『速度』にあたります。速度は元の関数を微分したものですから、この数式を積分してやれば、私の体重を0になる日数を、別の視点から割り出すことが出来るはずです。

さっそく考えて見ましょう(爆

積分ですから

∫(-5x+55)dx

と立式すべきでしょうね。
これを処理しますと

-5/2x^2+55x+c  (cは積分定数)

となるわけか。ふんふん。
この数式を、体重をy、経過日数をxと置く関数と見ると…

y=-5/2x^2+55x+cにおいて、経過1日目(つまりx=1)で体重が50Kgになっているわけなので、xに1、yに50を代入しますと…

50=-5/2+55+c

これを解いて

c=-5/2

つまり求めたい式は

y=-5/2x^2+55x+-5/2

ということですね!(隠さん間違ってたらごめんなさいw)



ではいよいよ確信の体重0Kgのxディですが…
y=0と置いた二次方程式を解けば出るはず。

-5/2x^2+55x-5/2=0
解の公式より

x≒22

おお! つまりこのペースでも8月11日までは体重0はないと。
そこまでには私の食欲も回復しているでしょうから大丈夫な気がします。


この失恋について私が自分の豊かさに気づかされたことがあります。
職場のあまり職場が同じにならないバイトちゃんから

『黒田さん、失恋したんですよねw』

と言われたことです。

デリカシーがないと言えばそう言えるのかも知れませんが、私は正直嬉しかったです。ほとんど知り合いとも言えない人も、私の悲劇を認知してくれている。

他にもパートの方で、私が『フラレました』と報告したら、『なぜあんな良い女の人と別れるのか』と言って泣いてくれる方もいらっしゃいました。この際『別れた』のではなく『捨てられた』という事実はその方の中では関係ないようです(笑



私の人生はこのように豊穣です。

落ち込むこともありますが、毎日元気にやっていこうと思います^^
 
2005/07/24/日 なぜキリスト教が自由主義を産んだのか?(笑
私がよく言う話なんですが。

キリスト教ってほんとに上手く出来てます。
私の知っている出所不詳な怪しげな説では、『イエス・キリスト』というのは
『はい。その通りです(真実です)』という意味の名前だそうです。

これ、以前の日記にも書いた、私の中に時折流れる気持ちよい『風』とまったく一致する言葉なんです。

自分自身の存在が認められた、『はい。その通りです』という一致感。これこそが教義で言う『聖霊の声』、自分との一致、悟りの状況であろうと思うのです。

自分の成したことに誇りが持てるとき、私は『イエス! キリスト!』と心の中『が』叫んでいます。もちろん私はそういうものを『主』として思っているわけではないですが、彼らの言う『ミッション』の意味は、多少なり会得していると自負しています。


ある問題があって立ち止まっている自分や人を見ると、いつも私が思うのは『するかしないか』の問題でしかないじゃないか、ということ。要するにそこには決断に対する躊躇しかない。


実は。

思えば我々は否応なしにその問題に
すでに決着をつけているのです。



我々が存在のチャンスを得ようとしていたとき、つまり生を受けたとき、『全能の神』か『父』か何かはよく知りませんが、まぁそんなような存在に

『で、どう? 生まれたいの?』

と問われて、

『そんなこと急に言われても…』

と尻込みし、

『私は忙しいんだ。今、ここで、すぐ、『はい、そうです』と決断しないなら、もうこの話はナシだ』

と言われ、

『はい、そうです…』

『約束』してしまっているからです。


その後一切の客観的事実から可塑的に推測して、宇宙に信じ難いビッグ・バンがあったと科学的には認めることができるというのであれば、我々の誕生もまったく同じ手法で(つまりその後発生した権利や自由の存在から科学的に)推測して、間違いなく我々自身の決断で発生しているといえます。

だからこそ私たちが苦しみながらも朝を迎えなければならないのですから。
その『苦しい次の日』の存在自体が、↑の仮説を証明する論拠なのです。


自由と権利(この2語はまったくの同義ですが)というのは、まず日本人なら知らない人はない、福沢諭吉が考え出した言葉です。もともと権利の方は『権理』だったみたいですが。

仏教用語だそうです。

自由と権利と聞くとなにやら自由主義的で、西洋チックな雰囲気が漂ってますが、実は東洋の専門用語だったんですね^^


私も年寄りな事を言うようですが、最近はこの『自由』というやつが正確に認識されていません。



問題。

『自由』を英訳しなさい。










さて、あなたの頭に浮かんだ最初の単語は『liverty』だったでしょうか? 『freedom』でしたか?


この回答はあなたが知っていることですが、客観的な事実としては、正解は前者です。反論する人もあると思いますが、少なくとも福沢が『和訳』したのは前者。これは歴史的事実。彼はこの語の訳を当初『ご免』としようと思ったらしいですが、それでは何か自分よりも上の存在から与えられただけのもののようで、語感が面白くない、と判断したとか。おそらくこの『ご免』は『freedom』に相当するでしょう。


私には語学、特に英語の素養はまったくありませんが、このlivertyという単語は間違いなくliveつまり『生きる』ということと関係があると思います。

ついでに勝手に解釈するとすれば、livertyは『生きてるっぽい』って意味じゃないでしょうか?


つまり
人間は『ああ! 生きてる』と思う瞬間『自由』になるのです。

自分に生を授けた契約者が自分であったと素直に思えるとき、『聖霊の声』を体感するのです。

そういった充実感をもうちょっと形而下で考えてみると、『やりたいと思っていたことを成し遂げたときに得られる達成感』ということになると思います。


私は今回私を育ててくれた人から離れるにあたって、私は、

『イエス! キリスト!』

と叫びました。


もうまったく迷いなし。


ただ時間もないです^^;;

それは自分の存在を、まだ形而下では確固足るものにしていないから。
つまりそこさえクリアすればよい。



さぁ道は見えました。

打撃は受けましたが相変わらず私は豊かですし、まだまだ歩いていけそうです。

というか今までは歩いていなかった。実は。

相対性原理から言って、どこかを固定しなければ、運動というものは定義できず、純粋にその物質が運動しているとは言い得ませんから(笑

逆説的ですが、まずは自己よりも自己を取り巻く環境を認めることで『固定』しましょう。

そうすることが結局は自分を『自律的に』行動させることになるのです。

周囲の存在には間違いなく正しさがあり、意味があり、真実があり、愛がある、と『信じること』。これはもう信念であり根源であり、どういったことがあってもその一点が揺らぐのであれば、それだけではなく『全てが』動揺して意味を成さなくなる。


周囲を認める。


それは世界を内側に取り込んでしまうこと。


洋上での戦闘艦にとって最悪の事態は、無論沈没です。

しかし次に怖れるのは『戦闘不能』ではなくて、『航行不能』です。航行さえ出来れば港に帰り、修復も可能だからです。主砲が潰されたところでまだまだ戦える。
航行不能になってはならない。仮に武装を失っても。

いかに社会的地位などの『46cm砲』で武装していても動けなければ(≒動かなければ)、動ける艦はそいつの射程距離に近づいてこない、というだけの事でしかない。皮肉なことに武装が強力であればあるほど、他人からは距離を置かれてしまうってこと。


還る場所があれば再起できる。



そしてその再起のための港は、あなたや私が愛したからこそ、得られた港。そしてそんな港が事実としてあるのなら、可塑的にあなた自身が…(以下略)