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2006/06/01/木
『物の色』というものが実は光の反射であるということを、私はサノ・モロヒデという人から教わりました。いや、普通の中学美術教員なのですが、漢字を忘れたのでカタカナにしてみました。芸術家なので、意外と喜んでくれそうな気もします(笑


その後高校に進んで光合成と光の波長の関係を知り、『植物の緑な理由』を理解した私は、それなりな知的興奮を覚えました。『ああ! なるほどなぁ』って。光とは、全ての色が合わさったものだとモロヒデ先生に教わりました。植物は光合成に赤色の光を使うので、可視光線のうち赤色波長が吸収され、その反対の色(『補色関係』だったかな?)である緑が反射されるわけです。だから私達には『緑色』に見えるんです。つまり、可視光の全ての色から赤を取り除くと、緑になる。


それから私は色々な色を追いかけて、色々な色をその姿に反射してきました。色を意識することもなく。


で、思うのは、中学の自分が、変な日本語ですが、なんとなく絶望した瞬間。


モロヒデに『色の秘密』を教えられた私は、さっそく絵の具を全色混ぜました。すると出来た色が…







だったんですよね。

私の計画では、『白』が誕生するはずだったのに。中学生だった私は今よりもさらにおセンチでしたから、相当にへこみました。今思えば、そのときのへこみ具合が足りなかったように思います。もっと早く、『白とは色(反射)ではなく、発光することだ』ということに気がつけば良かったんですが。本質的に違う。『白』は『色』じゃない。

私は考えるタチですから、よく人に物を聞いてもらえます。『どうしたら良いのか?』って。いっつも私は話します。『誰かの説明することは、誰にでも出来るけど、誰にも再現不能だと思います』と。

カエサルを理解するにはカエサルでなくとも十分ですが、カエサルであるためには、カエサルのやったようにやるだけではおそらく不十分です。様々な方法という『色』を混ぜたって、所詮は黒くなるだけだろうと思います。『白』になるためには誰かの方法を真似するということではない、『自らが発光する』という全く別次元での取り組みが必要になる。『誰かの光』と言う方法ではなくて、日々に動揺し、感動すると言う泥臭い『生きている実感』を怖れずに味わっていくという、1000本ノックのような練習をこなしていくしかない。そのストレスや重圧が増大し、ある一定以上になると、核融合が起こって『恒星』になれると思う。



ん? 『白になったらどうだって言うんだ?』ですって?


解りません。でも反射が跳ね返すだけであるのに対し、光である白は、受け取り手側にどんな色をも選択してもらえます。色は跳ね返すものですが、白である光は与えるものです。つまりどんな相手も受け入れられる、温かいハートをもっているんじゃないかなと思います。




さらに温かいハートの意味は? ですか。



意味など他人に決められるものでしょうか。果たして。


そもそも意味など生の前では、なんの意味も持っていないと私には思えます。


生きることとは生きることであって、それ以上でもそれ以下でもないんじゃないかなって思った。

 
2006/06/04/日
一昨日、美術館に行ってきました。『一昨日』というあたり、『これは日記なのか?』ということが怪しい感じです(笑

京都近代美術館の藤田嗣治の個展。

私にとって、本格的な美術鑑賞というのは初めてで、私の知人でその方面を志す方にお願いして誘ってもらった小旅行でした。美術ってのは科学的だということを過去に書いた記憶があります。そういった感じで藤田嗣治についてもある程度の背景を知らなければならないと思って、多少ビデオなどで予備知識はもって行きました。で感想。




ずーん。。。




つまらなかったんじゃないんです。絵の具が綺麗とか、配色が、バランスが、構図が、とかそんなんじゃない。とにかく私は館内にいた3時間の間に、もうヘロヘロになってしまいました。あれだけの技術力を身につけるのに、どれだけの時間を費やしてきたのか、そのためには何を捨てなければならなかったのか。そして各年代での作品作品に、彼なりのそういう想いがこもっていて、本当に鬼気迫るものがありました。画家にとって、画とは構図を考え、紙に絵の具を塗ると言う行為ではない。そのときの自分を表現したものに他ならないと感じました。この個展では作品の成立年代順に作品が展示されており、藤田のそのときの心境を推し量ることがより一層の確度を伴いそうでした。新しい作品に対する挑戦、そのときの犠牲。そしてそのときの彼の絶望感。元々著名な画家だし、私が見た予備知識でも『パリで一番人気の日本人画家』などと言われていましたし事実でしょうが、私にはとんでもない苦悩に満ちた、人間としての全うな欠陥品に見えた。天才になれないことがわかっていながら続けた凡人の努力。今までは『彼は芸術家、私は一般人』という別の世界だと割り切っていたのに、芸術家も人だという当たり前の真実を、血をもって見せつけられました。技術的なことも。『芸術家も特別ではない』という方針において、彼は一流の中では2割7分5厘、10本塁打、年俸3000万くらいの選手でしかないと私は見た。私が知っている芸術家なんて少ないけども。大作がない。大作には『構図』という骨組みが必要になります。見慣れた画用紙くらいまでは凡人でも描きこなせるでしょう。しかしその20枚分以上になる作品となれば、それだけの構成能力ともいうべき力が必要になる。ここには何々が必要で、ここの何々はかくあるべきであるという哲学が必要になる。そういった点、彼の大作は戦争画であるとか宗教画であるとか、とにかく主題が外側にあり、彼自身は描画能力を提供しているに過ぎないと感じた。彼自身の生き方や哲学による大作がない。背景もない。ある主題に対する広がりと言うか、価値観たるものであるだろう背景が。彼の絵のほとんどは白い背景に主題である人物が配された、いやただ描かれたものでした。そんな超人的センスも美術的戦略眼がない人間が、どうしてこんなにも犠牲を伴うものを、必死にやりぬかねばならなかったのか。どこまで追い詰めるんだ!と思うと胸が痛むというより、もうただ呆然として、足ががくがくした。生きるということを生ききった人の、力いっぱいのげんこつが、私のボディに決まった感じだった。正直、途中、立っていられなかった。


美術館内では別行動だった彼が『どうでしたか?』と笑顔で訊いてくる。私は『S君も、やっぱりこうしたらこんなことになってしまうとは解っていても、こうしなければならないものなん?』と問い返しました。



『つらいんですけど、そうしかできないんですよ(笑)』



その通り。私も人に笑われても、地獄に落ちたっていい。やるべきことをやって、その責任をとるだけのことだと思った。







『しか出来ない』



それは思い込みにすぎない。何だって出来る。世界を狭くすることはない。世の中に『絶対』は絶対にない。『しか出来ない』なんてことは、現実世界では起こりえない。


でもある人物にとっては、『しか出来ない』と思い込むことでしか、出来ないこともあるんじゃないかって思った。




こんな仮説は危険だろうか。


2006/06/07/水
私もまだまだ若いなぁなんて思ってしまいました。



実は前段の日記のようなお話を人にしたんです。職場の。アルバイトで来ている、年配の方です。その方が言うには

『黒田さんは“生き切る”と言いますが、僕はね、毎日“生かされている”と思ってますよ』。



あいたたたた^^;;



これにはガツンとやられました。
私、つい自分自身が生きているような感覚を保とうとしてます。『我思う、故に我あり』なんていった人もいますが、私は『あなたがいるから私がいる』になりたい。


でもこれ、響きはいいんですが、実際に生を捨ててない私から見れば、正直『諦め』と外見上、ほとんど違いがない。だから今一歩そこに踏み出す勇気が出ない。結局自分を捨てきれてない。『あなたがいるから私がいる』になるためには、世界に身を任せてみることが出来なくてはならないと思うんですが、私のように『私はこうなりたい!』とか、『こうであるべきだ』などという狭い世界に住んでいる人間から見ると、幽霊のように怖い。そんなのは生きていることにならない!とか訳のわからないことを考えて逃げてしまう。



将棋の羽生善治さん。



あの人は勝負についての著作で、『ぎりぎりのところで首を差し出す勇気』を書いていますが、まさにその通り。今まで地道に築いてきた将棋を、相手にわたしてみる。それが出来るかどうかで大きな差があると思う。例えばほとんどの人は他人や社会の悪口を言うことは出来るでしょう。しかしあなたが先輩や上司になったとき、実際にやっていけるのでしょうか? 後手に回って攻撃することは楽だから、結局『先制』せずに相手の出方を見て、それを批判する。事後であれば、誰でも神になれます。そうやって無責任な文句を言い続けてきた私は、いざ自分自身が『先手』になったとき、上手く生かせるのかと思う。おそらく方向性を見失って不安になり、自分から負けていくのではないだろうか。羽生さんの書いたことも、私はそんなように理解しました。彼は『見切っていれば、ぎりぎりまで踏み込める』と言っていますが、奇しくもこれは私のハンドルネームの源である、柳生十兵衛の伝説に残っているセリフと全く同一です。実際勝負に入っている人にとって、その心境はおそらく似通ったものになるのでしょう。



先日の芸術家が車の中で、『黒田さんはどんな音楽を聴くのか?』と聞いてきたので、音楽の話になりました。私は『歌詞派で、歌詞に納得がいかないと、歌に入り込めない』ということを彼に伝えました。そしたら彼が一言。


『つまり、この歌詞なら許容範囲、ってそういうわけですか』


『そんな傲慢ではない!』と言おうとして、はっとしました。そういうことですよね、つまり。相手が歌おうというのだから、聴けばいいんです。何も私が選ぶことなんてないし、そんなことは『自然』ではない。




何でも相手の言うとおりで、“聴く音楽も周囲次第”では『好みとかないのか? 無分別ではないか!』というご批判もいただきそうです。私もそう思えてしまいます。だから踏み込めないんです。でも本当にその『覚悟』だったら、私は無分別でもないし、好みもないこともないんだと思うな。多分。神を心底信じていれば、不安など無いように。仏法にせよ神にせよ自然の摂理にせよなんにせよ、自分が信じているものがあって、それに『愛がある』と信じているなら、どうしてあえて自己の人生を自分で決めようとするのか。周囲に任せてしまえば、愛をフィルターで受けることも無く、自在に生きれるのに。


外から見ればキワドイとこなんですよね。


『経営者』と『営利主義者』の違い。営利は経済とも限りませんよ。名誉や、愛情や、その他もろもろの報酬。まっとうな経営者にとって、利益は自分のものではありません。なんでも自分のものにしていく人。それが営利主義。自己研鑽にしても修行にしても、その照準が自分にロックされている。でもある程度までは人間、そうでなければ何も身につかないことも事実です。この二元一次方程式に、どう解をつけていくのか。



『生ききる』は私にとって『浅はかさ』の暴露に他なりませんでした。まるで韓非子の韓非に、『性悪説』というレッテルを貼った人間のように。あんなに愛情家なのに。







それでも僕は





『ねばならない』。




 
2006/06/10/土
人間は、どれほどの人に認められれば、生きていたことになるんでしょうか?

変な疑問だなぁとは我ながら思うのですが、歴史に出てくる人物で、例えば『蘇我馬子』とか本当にいたのかなぁなんて思う。決定的な証拠ってあるんだろうか? 絵が描かれていたり、お墓があったりその人となりの文章が残されていたとしても、そんなのは御伽噺の登場人物だったのかもしれない。武田信玄の伝説の軍師、『山本勘介』。これは今のところ存在していないことになっていますが、これも本当に『架空の人物』なんでしょうか。その『非在』は馬子の『存在』と同じような『事実』なんでしょうか。



コペルニクスの地動説が当時は『虚構』であったように、多くの人間がそれと認識するまでは、ある科学的な実験や理論の結果ですらそれは『事実』ではない。科学者でさえ、職業科学者でしかなくなっている場合がありますよね。私は昔から思っていたんですが、論文などを読むと、ある発見の証拠として写真が出てます。『○○を発見しました。写真がありますし間違いありません』ということでしょうか。この論法にのっとって『写真が証拠になる』場合、なぜ『科学者』は心霊写真を『証拠』として取り扱わないのか。心霊写真を『インチキだ』というのであれば、他の人を説得するのに、自らも写真なんて使わないほうがいい。もちろんこれは私が大学の時に思ってたことで、今では『合成』とか『レタッチ』などは当たり前の世の中ですから、こんなことは技術的には問題にならないんですけど。少なくとも私は人間というのは『信じたい事実しか事実にしない』と思っています。だから存在が存在しているだけでは実在ではないんじゃないのかって思うんです。多くの人に認識されない人生は、ひょっとしたら『人生』ではないのかもしれない。



そういった私の考えの変化とともに、最近私を動揺させている自分の中の仮説は

『別に存在しなくてもいいじゃん。つーかそもそも存在ってのは非在と対になるものではないのでは?』

です。


私の冒頭の『何人に認識されれば存在となるか』はそれだけではただの命題ですが、こういう考えに至る背景には、『存在したい』『存在の意味を問いたい』『存在の実感を得たい』という願望が内在しているんでしょう。で私は思う。『存在は客観的・普遍的なものではないのではないか仮説』。これにのっとると、死は生との決別ではなく状態変化に過ぎないし、『生きている』ということ自体に力むことは無い。



ちょっと待て。



でもこれじゃあ『一所懸命に頑張る』はどうなる?

『いやそれとは話の次元が違う。存在・非在が相対的であって、絶対的でないとしても、状態変化である以上、状態の媒質はあるという概念に立脚しているんだから、頑張るもあり得る。もちろんこの種の概念自体も怪しくて、媒質も無いかもしれない』

『じゃあ志や理想は?』

『そんなのはある種“欲”が結果から見て良かった場合の、言ってみれば形容詞に過ぎない』

『じゃあ意味って何だ?』

『ある相対的な事実関する相対的な理解・解釈であって、絶対な物ではない』



今の私、明らかに新しい座標軸を求めてますよね。


最近私、人と話をするのが怖いんです。なんだか『おかしなこと』を考えていそうで… まぁそれが私と認めるしかありませんが。現に話しているわけですから(笑