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| 2006/10/11/水 | ||
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| 2006/10/17/火 | ||
| 最近私の中の新しいことを始めまくってる私。以前は子供が野菜を食べないように、好きなことしかやらなかった。つまり、知らない世界は全部つまらない世界だと思ってた。言葉では『違う』と言ったところで、事実としてはそうだった。新しいことということを意識的にやるために、私は行為することについて考えた。有意識の行為とは、常にある種の結果を期待してなされる。ところで人間はもし妥当な理性を持ちうる限り、5/8の確率(62.5%)で保守的になるということが論理的に導かれる(『真理』ではありません。ある論理です。興味がある方もいらっしゃると思うので、またの折に書かせて頂きたいと思います)。つまり論理的には既得権に固執した方が、新しいことで何かを得られると期待するよりも心理会計的に妥当。これは仮にそれが明らかにおろかな不倫の関係ですらそうです。不倫や浮気は本人の『合理的な』心理的判断において、5/8の確率で継続されるはずです。そんなわけで、とにかく『新しいこと』を始めるのに、何の苦痛も感じないということはまずありえないといっていい。 たかだか『新しいこと』を始めるのになんでこんな論理が必要かといえば、今日と違うことをすればそれで即、『新しい』とはならない、と私は思うからです。奇しくも今日そんな私信をいただいたところですが、“毎日『同じような』業務をこなしている”と思っていても、『完全に同じ』な日ではなかったはずです。厳密に言えば『新しい』日だったはず。でもおおむね同じ。なんでそう言えるか。ほかならぬ本人が『そう思うから』です。例えばロックをやっていた人が、ある日ラップに移ったとする。これは『新しい』か? これは周囲から見れば新しいという人もいれば、音楽だし同じじゃん、って言う人もいると思う。でも問題は本人の意識です。簡単に言えばロックをやっていたときと同じ感覚でラップを歌うのであれば、これは『新しくない』。『新しいことをする』というのは、何か違う業種やスポーツ、趣味などに手を出すことじゃない。自分の中に違うルールや価値観を構成することを言うと思います。今まで受け入れられなかったものを受け入れる。これが『新しい』。ルールを変えてくれるもの、これが私の中の『新しい』もの。 それが本当に新しいのかどうかを自分自身で判断することも、実際には容易ではありません。特に微妙な場合。微妙な場合は結局もとの(古い)自分のルールに修正して行うことがほとんどです。 で私はとりあえず簡単な方法として、『苦痛な方向を選ぶ』というものを採用しています。だって今の価値観は今までの経験で醸成されたもの。それを否定するのに苦痛が伴わないわけがない。反対に言えば『苦痛と感じる場所は、新しいことの宝庫』となるわけです。自虐的でしょうか? んでFMですよ。やっと本題ですけど(笑 今まで私はラジオといえばNHKのニュースと1620MHZの道路交通情報くらいしか聞いていなかったんですが、最近FMを聴くようにしているんです。 いや正直最初は苦痛でしたね。なんというかナビゲーターの人(私の聴いているZIP FMでは、DJの人をこう呼ぶらしい)の『独り言』が、芝居臭くて聴くに耐えなかった。んでかかる音楽といえば私の知らない曲ばかり。苦痛を感じるたびに、『イヤ待て十兵衛。これが新しいということの最初の正統な感覚だ。ここを通り抜けなきゃ世界は広がらん』と言い聞かせ、粘ること1週間。今ではお気に入りのCDを聴くよりハマルようになりました。 そんな“ナビゲーター”の方が紹介してくださったCDの一枚。 THE BUDDHIST MONKS 〜SAKYA TASHI LING〜 ユニバーサル社(?) スペインのアルバムチャート1位になったもので、なんでも『本物の仏教徒の“マントラ”を録音し、現代音楽に融合させたもの』なんだそうですが、これを聴いたとき、なんか本当に集中した。んでシーモの初回限定盤と迷った挙句、こっちを購入。 マントラってもちろん日本語じゃないから理解できないと思っていたんですが、実はそもそも意味がないんですね! このCDの解説読んで、初めて知りました。『なんか意味は解らないけど、言葉や音楽の響き的に気持ちが落ち着く音声の羅列』みたいなもんなんだとか。もっとありがたい意味があるかと思ったのに。その点に私はさらに強く惹かれました。 そもそも『意味』なんて『意味がない』と思っている私には本当に共感できた。ある状態が上手くいっているとき、『上手くいっている原因』なんてあるわけないと私は思ってる。よしんばあったとしても、それがあっても失敗したときもあるはずだと思う。失敗したときもそう。決定的なことなんてない。『うっかり手が当って』上手くいっちゃうことも、失敗になっちゃうことも、世の中ではよくあることです。あるメールや電話とかのアクションである異性と上手くいったとする。でもあるメールや電話とかのアクションで、ある異性と上手くいかなくなるんじゃないんですか? 素人がする原因探求なんて、結局結果論でしかないと思う。それよりも、上手くいっているならまずしなくてはいけないことは感謝すること、失敗したなら謝ること、それだけじゃないのかなって思う。人殺しでさえ状況によっては善ともされたりする。ある事実だけを切り取ったものなんて、何かの『原因』足り得るんだろうか。だから私はただみんなで唱えているだけで心が休まることについて、なんの疑念も侮蔑の感もない。昔踊念仏や、『お題目を唱えていれば平穏にすごせる』と言っていたのもあながち間違いではないと思う。問題はやっぱり本人の心の持ちよう。『そのお題目さえ唱えれば幸せになれるんだ。だから唱える』というような打算の心では、何万べん唱えたって心は平穏にならない。お題目を心から堪能するから幸せなんです。きっと。イエス・キリストを信じるから幸せになれるんじゃない。信じること自体が幸せになっていなければ、それはおそらく『信仰』ではないと思う。だから信仰とは『する』という『行為』じゃなくて、『状態を意味する』ような気がする。だから尊い宗教は無理に勧誘なんてしない。誰かが知らせなくったって、その人に自然に宿る。もちろん出会いもあるから、紹介された・するから即だめ、って話でもない。各地で紛争を起こすこともある宗教の宗主が、一様に周りの宗教を認めるのは、政治的な意味合いでもはかれるかもしれないけれど、私はそうではないと思ってる。ダライ・ラマもローマ教皇も、イスラム教会もある程度(というか核心の部分で)認め合っているじゃないですか。私には不思議じゃない。 一方で人間というのは孤独も不安ですが、『みんなと一緒』というのもまた不満なもんです。『自分が!』というのがどうしても首をもたげてくる。確かに『ナンバーワンにはならなくてもオンリーワン』ですが、だからといってそれだけで認められるわけでも孤独から解放されるわけでもない。私は老子の哲学が好きです。無為の中の主体性。でも不満がないわけじゃない。だって自然を受け入れて、自然に返すというのであれば、私という人間は生きたことになるのか?という不安に襲われるとき、老子の哲学は『それはまだ未熟だから』と切り捨てるだけで、支えにはなってくれません。歴史上にもそういう人がたくさんいます。もちろんはるかに偉大な業績を残してますが、みんな自分自身の空虚感と戦いながら何かをしてる。その人は偉大だったかもしれないけど、幸せだったんだろうか? って思う。また幸せであることが善なのか? 違うかもしれません。って考えると、ニーチェが『ルールを変えたい!』ってあがいたことも理解できるんですよ。彼は人間の価値観とは『素の状態ではない』って考えた。で、素の人間でなければ、結局のところ新しい世界にならない、としたわけです。ソクラテスの『無知の知』についてもそう。無知の知っていうのはよく倫理哲学の教科書に出てくるような『人間の限界の認知』じゃない。無知という状態を想像出来る知恵、裏を返せば意味ということの意味を考えられる状態を言うと思う。 で、このCD。職場の大学生にも聴いてもらったんですが。 大不評(笑 |
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| 2006/10/29/日 | ||
| 文章を書くってのは、ものすごいエネルギーを必要とするよなぁって最近思います。このところ更新頻度の落ち込んでいる私ですが、元気は元気なんです。時間もないわけじゃないし、書きたくないわけでもないです。でも力が出てこないんですよね。純粋に体力の問題というか。そもそも書き始めの頃に比べて文章自体が長くなってきていますし、なんだか『まとまったものを書こう』的な欲があることは事実です。しかしそれ以上に私が思うのは体力不足。仕事やガタの世話、部屋作りに勉強にとかなりのコストを配分していて、機械じゃないですからそこに『ほっと一息』の時間を入れます。するともう眠らなくてはならない時間になってます。『書くことは深い人類愛に根ざす』という言葉をどなたかが残しているそうですが、然り、異論はありません。しかし、愛に力が必要でないかといえば、愛ほど力が湧いてもくるし、吸い込まれもするものもないんじゃいないでしょうか。もちろん私は私の文章が『役に立つ』とかそんなたいそうなことは思いません。最前の言葉を残した人もそういう意味ではないでしょう。『書く』ということは『自分を解って欲しい』という根源的な欲求の顕れであり、そしてそれは即ち読み手の存在をも認める行為と陰陽の関係にあります。それがたとえ自分以外の誰も目にしない文章であったとしても。 そういうわけですから寂しがりやな私としては、大いにキーボードを叩きまくりたいわけですが、もうなんというかろれつが回らないというかミスタッチは増えるわ文章は出てこないわで全然進まない・まとまらないんです。今日この日記を書くまでにどれほどの書きかけの文章を闇に葬り去ったことか。『たかが日記だろ?』とお笑いになってくださって結構ですが、それなら何もサイトにアップする必要もないわけで、公衆の目に触れることが解っている以上、ルールというか作法というかそういうものは何かあるはずだと思うんです。『人が見てくださる日記だから書く』ということでなくては、ブログがここまで流行る理由をもっと他の部分に求めなくてはならない気がするんですよね。『私は誰にも読んでもらいたくない』って骨の髄から思っている人は、そもそもアップする必要はないわけですから(そういう人はおそらく哀しいかな、『書く』必要もないと思います)。 そんなわけで、『文字文字』したくってウズウズしてるけど疲れて寝る。この頃。 |
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