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| 2007/03/09/金 女の子T |
| 女の子って男から見ると本当に不思議な生き物です。もちろん反対に男も不可解だろうし、年齢にもよるんでしょうけど、妙齢の女性ほどには不思議度が高くない気がする。 今日ちょっとしたことで知り合った女の子がいたんですけど、その子が『黒田さんって芸能人の誰かに似てるって言われませんか?』というんです。芸能人なんかに比べられるような容姿でもありませんし、私は芸能界にとんと疎いので、言われたことがあったとしても全然記憶にございません。『うーん…』と答に窮していると、『わかった! 柴犬だぁ!』だって。 芸能人!? |
| 2007/03/13/火 自己啓発本 |
| 私の家系は伝統的に独立独歩な気概にあふれてまして、親父や姉貴などはそりゃもう箸の握り方まで自己流でないと気が済まないという感じです。そこにいくと私はすでに故人となられたサイトウシゲタさんの本を読んでみたり、ポール・ピアソールさんの本を読んでみたりと比較的キャパがあるんですが、今回押し付けられた本にはマイッタ^^;; 上司から『3日で読め!』と言われた本なんですが、題名からして私には無理だったんで、『こんなんに3日も使えるか!』ということですっ飛ばして4時間くらいで読みきりました。ある意味こういう方が速読できるのかも(笑 題名はあえて伏字にしますけど、『○○流仕事術』みたいな感じです。巻末を見ると結構シリーズになっててびびる(汗 私はこの本は似非啓発本だと思う。少なくとも実践的でない。○○社が際立って優れているということの宣伝本なのかもしれない。それならそれで評価に値するとは思う。会社には宣伝は不可欠だから。でも糧には出来ないなぁ。 私がそう思う根拠。というか私が似非啓発本とそうでないものとを判断する基準。 結論に素数がない本は怪しい。 どういうことかと言いますとですね。ちょっと長くなるんですけども。 素数ってのは『1とその数以外の正の約数のない数字』。平たく言えば『1以外で割り切れない数字』です。3とか5とか。もちろん2も含む。要するに数字の中の『原子』で、それ以上に細かく分けることが出来ない数字です。素因数分解というのはある数を素数の積に分解すること。例えば48は24×3という具合に分解されます(2の4乗×3)。私はこれは数字の世界の原子分解だと思っています。化学の世界で水(H20)が、水素(H)が2つと酸素(O)が1つに分解されるようなもの。ある単純な成分に置き換えられないものは、私の中で理解が及ばない。 人間はある物事を説明するにあたって、 『○○は△が□に☆されて起こった』 などと因果関係を作って言葉にします。要するにこの因果関係の解釈の仕方が人の理解の違いであり、説得力の違いになってくると思います。で、私にとって△や□や☆が素数でなければ、その文章はただ物事を別の言葉に言い換えただけで、実際のところなんの説明にもなっていないと思うんです。 具体的に書くと、この本には 『○○流は、考えるよりもやる時間を重要と考える。あれこれ言いわけを考える暇があれば、どうすれば実行できるかを考えろ、が○○流だ』 という一文が出てきます(○○と伏字にした以外は原文のままです)。 顕著な例を選んだので自明のことですけど、『言論より行動』なんていうのは別に○○流じゃなくとも解りきったことであって、どうやったらその○○流な思考方法になれるのかが書いていなければ、一体これはなんの自慢なんだろう、と呆れてしまうわけです。以前私自身のお話として書きましたけど、試験でいい成績を取るには勉強を質・量ともに充実させることです。最前の例に従えば、『私のやり方』は 『試験勉強は元来苦しいもんだが、そこを楽しいと考え直すのが十兵衛クオリティ!』 となります(笑 いやそれが出来やんから困るんやろ? つーか別にただ『勉強しろ』って言ってるだけやん?w と私ならずとも思ってしまうところだと思うんですがどうでしょう? 結局その『○○流』の考え方にどうやって行き着いたのか、というような思考プロセス----素因数分解----がなされていなければ、全く同感も出来ないし、読んだ後気分は爽快になってもそれだけのことで、しばらくしたらまた何も前進できていない自分を省みて、『これじゃいかん』と新たに啓発本に手を出す… てなりはしませんか? 私がサイトウさんやポールピアソールさんの本に馴染めたのは、共感できる部分(つまり素数←私にとっての、ですが)がその中に含まれていたからです。人としての喜怒哀楽のようなわかりやすい部分に論拠がある。欲と言ってもいい。それを上手く合成して望みの数字を作り出す。煩悩を煩悩で誘導して、気がつけば何かを達成できているように仕組むのが、コントロールだし、頭のいい人だと思います。確かに私にとって101とか1011とかいう人もいます。数字(人間)は大きいのに、成分を取り出すことが出来ない。もうただその人はその人でしかなく説明も不可能。そういう人もいます。私はそういう人を非凡だと思うし、方向性によっては奇才や変な人だと思う。見えている部分が少ないだけかもしれない。とにかく私との共通因数がない(少ない)からそう思う。 私が歴史を好きなのは、それが人の創ったものだからです。奇才天才も、歴史という大きな流れの中で見れば、因数分解が可能です。無論、正解とは違うかもしれません。しかし理解とはある種『共感』でしかないと思う私にとって、『ああ、俺でもこの状況やったらこうするやろな!』と思えることは、とっても嬉しい。夜眠る前に歴史小説や歴史解説書に手が出る私は、おそらく友人・恋人・肉親・敵などをその中に探している。権力争いの中で、あっけなく死んでしまう人、性格悪そうなのに、なんだかんだでうまくいってしまう人。みんな共感できるし愛らしい。 私は特定の神様を信仰していませんが、霊なるものはあるだろうと思ってます。『ああ、わかる!』がそれ。私の中に、その部分があるからこそ、わかる。神様が全部の運命を決めているとか、誰誰がこう言ったからこうだ、なんて全然信じられない。我思う、故に我ありなんて高いところまではいけないけど、我感じる、故に我生たりとは思う。 すんません。 『デキル社員』、なれそうにないっす^^;; |
| 2007/03/17/土 死に至る病について |
| 『死にたいんですが…』っていうお話を結構いただきます。あ、いきなり穏当ではない書き出しですね(汗 まぁしかし、十年くらい人間というものをやっていれば、誰しも強度や真剣さに違いこそあれ、一度くらいは考えてみることでしょう。それは自分の『生の意味(自分の存在価値)を問う』という行為の萌芽でもあり、実際のトコ、割と身近なテーマなんじゃないでしょうか。 んで私が思うのはまぁのんびり構えるしかない、と。それが出来ないから『死』なんていう物騒なことを考えてしまうわけですので、この文法は先日の日記のハウトゥ本チックですね(笑 でも正直『我未だ生を知らず。況や死をや』というような未熟ですから、仕方ない。ただ、子供の頃を思い出してみてください。まだ『意味』なんていう病気に罹っていなかった頃を。なぜあの時は考えなかったんでしょうか? そういう年齢に達していなかったから? 立場や責任? 知らなかった? まぁ色々考えられますが、とりあえずそれではそのようにしたら良いのではないかなぁと思うのです。人間は自分の感情や意志をコントロールできるほど強い生き物ではありません。だからそういう状況を自分で作る。背水の陣を敷く。生きるしかないというような状況に身をおいてみる。 『無理矢理じゃん!』って思いましたか? でもこれは私の中では上出来な『ハウトゥ』なんですよ。『生きるしかない状況を考えてみる』というのは、書き下せば『望む生き方』でもあり、『現在の苦境の客観的状況分析の初動』でもある、と私は思っているからです。『生きるしかない状況』というのは、『生きたい』と思えるような生活(安逸とは限りません)。『客観的分析の初動』と言ったのはそれが『私の生を阻害しているのは何か?』を考えることに他ならないからです。要するに物心がついた『瞬間に』死にたい!と思った人はいないはずで、生きるというのは物理的に自然な行為であり、その流れを『何か』が堰き止めたり反転させていなければ、『死』には至らないから、です。そして『死』を意識している人は『どうやったら死ねるか』とか、『なぜ私は死にたいのか』ということは考えますが、『そんな私にとっての生きるしかない状況って、果たしてあるんだろうか?』とは考えはしないものだと思います。そういう方向に少しでも目が向けられればしめたものだ!と私は思ってます。 別に問題は『生死』に限らないと思うんです。生というのは『毎日(または瞬間、つまり時間)の連続』ですから、連続するもの・継続するものには必ず『死』≒『行き詰まり』の影が付きまとっています。状況に追い詰められてにせよ、自己がめんどくさくなったからにせよ、何かを続けていきたくなくなったらその問題はそれについての『死活問題』となりえます。そのときは『続ける意味を問う』のではなく『ここまで続けられてきたことなんだが、どうも流れが悪くなってきたようだ。その証拠に、私はやめたいと思っている。なにが堰き止めているんだろう?』と考えた方が建設的ではないかと思うのです。 中国に『窮地に陥って、策がなければ知恵者といわず』という言葉があります。色々と含蓄がある言葉だと思いますが、私は行き詰るとこの言葉を思い出します。知恵者というのは何もないときに色々と世間を的確に評論する人のことを言うのではありません。何か困難にぶち当たったときに、それを突破できる人、要するに『なんとかしよう!』と思う人のことをいいます。つまり知恵者っていうのは知識人ではなく、勇者。結局は勇気がなければ何も出来ない以前に、思いつきもしないのです。でも知識というのは、一見すると書物や勉学で学べる気がしますけど、勇気ってどうやって身につけたらいいんでしょう? 仮に知識が書物から学べるとすれば、勇気は? 全部経験論でしかなくて恐縮なんですが、破滅から目を背けないこと、ではないかな、と思うのです。上手くいかないことから逃げない。勇気がないから逃げたくなるわけで、矛盾に思えますけど、それは学問の場合も同じ。ある問題が解けなくて難渋している人にするアドバイスは『もっと勉強しろ』でしょう? これって論理的には明らかに矛盾です。その問題が解けない人が、類題を解けるわけがない。ただしこれは明らかに事実に反していて、人間は何度も間違えるうちにそれなりの解決方法を身につけていきます。だから類題を答えを見ながらでも良いから解いて、そのうち自力で解けるようになる(解法を覚える。つまり学習するということです)。要するに場数を踏め!ということでしかない。 昔は神様がいて、『これこれはしてはいけない』『こういうことをするとバチを当てますよ!』と言ってくれたもんです。だから子供の行動には確信があります。信じてる。でも大方の人はやがて神様の声が聞こえなくなる。実は自在だ、ということを知ってしまい、自分という存在のあいまいさに急に心細くなる。人の言動や、世界の動向が、急に冷たくなったように感じる。子供のままでいたい人は外側に神様を捜すようになります。『○○って正しいの?』。 私だって良くわかりません。ただ私は自分がいたいと戦った場所だけが、自分の居場所になると思っています。誰も私の居場所を『用意』してくれていることはない。いや、仮に用意してくれていたとしても、おそらく私は自分用だとは気がつかないし思わない。どこかでは『用意してくれればありがたい』と思っているクセに、いざ準備されていると『他人のことを勝手に決めて!』と気にかける。完全なわがまま野郎です。 結局自分がどう望もうと、自分自身がいたいと思った場所だけが自分の居場所であり、いたいと思った場所に必ずいられるのかといえばそうでもないのが人間です。だってその場所の居心地も、その場所に行ってみなくては解らず、そしてわかった瞬間に別の居場所を憧れるのが常なのだから。 死にたいと思うのは、まず混乱しているだけです。でも一言に『混乱』といっても程度もさまざまで、落ち着くまでに10年以上もかかるかも知れません。それでも私は『混乱しているだけだ!』と軽く、でも強く言います。思い込みで十分なんです。実際冷静になってみると『生存』も十分に混沌としているから(笑 これは私の言葉ではありませんけれども『泣いても怒っても倒せない敵は、笑えば殺すことが出来る』。 とにかく『混乱しているだけだ!』と思えるなら、少なくとも次の瞬間は迎えられるのであり、その瞬間の連続が生です。そして長く生きるとは、勇気の問題演習を反復することに他なりません。 だから 人間は生きている『だけ』でも強くなれます。絶対に。 |
| 2007/03/22/木 |
| ここのところ風邪のせいなのか、気が弱っているせいからなのかわかりませんが、とにかく調子が悪いんです。いや本当は調子が悪いんじゃないともうすうすわかってきましたが、認めたくないというか認められるほどにまだ心性が成長していないというか。古の『竜叔』と同じような症状です。 とここまで書いてびっくりした。本当は違う内容の文章を書こうと思ったんだけど急遽変更! 私、『“竜叔”ってマイナーな人だから、なんか説明つけた方が良いかなぁ。それともググったらすぐに出てくるのかな?』と思ったんです。んで実際ググってみたら、あらびっくり。丁度1ヶ月前に竜叔についてブログに書いていらっしゃる方が。広いネットの世界、列子もそれほどマイナーな書ではありませんから引用もされましょうけど、それがまさかたった1ヶ月違いとは。しかも検索結果、6件! まぁもっとも私の場合は自分が『心七孔流通真人』になったとはとても思えませんけど^^;; 何しろ私はこの話を最初に読んだとき、『ケンシロウの元ネタか!?』とか色めきたったくらいの凡人ですから(爆 というわけで、私の場合は1つの孔がふさがっているのではなくて、実はただの錯覚だったということが今判明いたしました。 明日は朝からお気に入りの珈琲を淹れることにしよう! |