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2007/05/16/水    名状し難きモノ.2007-1
私はよく『まだ9回じゃない』という言葉を口にします。他人に対しても、自分に対しても。何か失敗をしてしまったとき、気持ちを切り替えるために唱える呪文の一つです。今は敗北している状態にあっても、挽回できない失敗なんてそうそうない、というような意味合い。以前日記に書いた『99.9%は仮説』的な言い方をするのであれば、現在での失敗は現段階での失敗であって、規定された動かしようのないものではない、という風にも表現できるでしょうか。コペルニクスの地動説は発表当時『虚偽』でしたけれども、現在のところ『真実』とされています。3回裏の段階で5点差でリードを許していても、7回には2点差で勝っているときもあります。しかもそれは3回の段階ではわかりません。



でもな。



って思う。


こう思っている限り、規定された勝利もないし、規定された敗北もない。要するにこれは評価の基準に繋がっていて、常にそれが『まだわからない』と留保されるのであれば、評価に本質的に備わっている責任性(アカウンタビリティ)を失わせているんじゃないかな、とちょっと考えてしまう。まだ負けじゃない!と踏ん張ることは、『俺は悪くない!』と叫ぶことと似ていなくもない。

一方でひたむきな、またはかたくなな生き様が周囲に影響を及ぼすこともまた間違いありません。だからこそ芸術は心を打つのだから。絵や彫刻・音楽など現代の生物学において生命力とそれほど関わりないとされるもの-----要するに生物学的にはムダなもの----で傑作を出すためには、どれほどのかけがえのない生物学的浪費が必要だったのか(ただし『現代の生物学』がそれほど狭量だとは考えておりません。『実社会に、即物的に役立つことを説明出来るか』という意味を表象させたに過ぎません)。



問題の取り違えがあることは確かです。少なくともレベルを無視してる。9回終わってゲームセットでも、まだ優勝出来ないわけではありません。今年優勝できなくとも来シーズンが、引退したとなれば自分の指揮するチームが、などと『結果』が現れてから捉えている事象を拡大する。背比べをして負けたからと言って、相手に『お前は俺に勝ったつもりでいるだろうけど、ゾウからみればお前も小人だ』と言っているに過ぎない。五十歩百歩という言葉がありますが、この五十歩の差が、本当に、あらゆる場合に、ささいな違いでしかないのか?

自分に都合の良い論理を振り回しているような気がする。でもこれは『論理は現実を的確に表現など出来はしない。要するに現実は厳然たる現実で、素直に受け止めなくてはならない』という私の中では至極まっとうに思える論理から生まれてきた考えなのです。


『諸刃の剣説』と言っても良い。私は物事は常に優勢なときには同時に劣勢だし、痛いときには心地よいし、失ったときには必ず得る、と考えています。簡単に言えばある陣を突破しようとする軍隊は、その形において常に後背を敵にさらしているし(包囲する側は包囲される)、怪我や病気の時には他人の何気ない行動に感激させられる。今の恋人を失うから、新しい人と良い仲になれる。物理学では『渦が起これば必ず反対向きの渦が存在する』らしいですね。とにかく万事、均衡を保とうとするチカラが生じる。



自分を守るための免疫は、強くなりすぎればかえって自分を傷つける。



現実を素直に受け止めようと『努める』と、論理も必ず『強化』される。現実を自分に都合の良いように受け止めるのならば、論理の必要性は薄れ、別段何も感じなく(考えなく)なる。老子の言う『何も感じないし、何も考えない』を安直に実施すると、要するにそれは事実を歪曲するだけ、に終わるのではないでしょうか。まぁそもそも『純然たる現実』自体ありえないと思う私ですが^^;;


そろそろ何が言いたいのかをはっきりしないといけませんね(爆


一言で表すならば、


『“諦めることと貫くことは、実は対立軸ではないんじゃないか” という疑問が湧いて(というかおそらく私はそう思っている)、諦めることにも貫くことにもなんとなくチカラが入らない』


といった具合。でも解もぼんやりとだけど見えてる。


義を見てなさざるは勇ナキナリ。


苦手な孔子サマのお言葉ですが、まぁ、そういうことなんでしょうか。

 
2007/05/23/水