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2008/10/20/月      

よく僕は考えるんですけど。『こうなりたい』とか『こういう風に生きたい』とか。

そんなときだいたい『でも自分は今こんなんだからだめだ』とか『こういう風だったらそれが出来るのに』とか考えてしまう。前者も後者もだめだ、と最近すごく思う。少なくとも自分の中で何かが進化するような考え方じゃない。前者は現状を冷静に把握している気になって(実際その部分ももちろんある)満足し、後者はなんだかすごく理想的な条件でなければ何も出来ないような思考法だ。違う気がする。ものすごく。両方とも必要な考えかただし合理的だとも思う。実際自分の今の環境は今の環境で本当のことだし、誰がどう見ても出来る状況なら、そりゃ誰だって出来ると思います。でもそうじゃない。世の中で『平凡』といわれる人も『天才』と呼ばれる人も、みんな同じ制約の中で生きていると思う。もちろん同じ制約といっても条件が同じだといってるんじゃありません。同じような物理法則というか原理で動いているんだということです。これまでよく書いてきた芸術家のことを例にとって見ましょうか。

思考実験として芸術作品は(正確には世の中のその作品に対する評価)は、以下の式で求められるとします。

V(価値)=P(物質的環境)×A(能力)×L(運。生まれた時代なども含む)

その他にも考えられる変数はありますが、それらはこの際話の本質に関わりがないのでカットします(究極的に『生まれもっての能力』も『運』に含めることになりますが、これでは何の指針も得られませんし、そのように考える人は私の文章は非常に不快であると思います。もちろんその考えを否定するようなことは私はしませんし、出来ません)。

運は各人それぞれで仕方ないので定数として扱います。もちろん一般的な運くらいなことは人力でかなりの部分どうにかなりますが、生まれた時代くらいの次元になるとどうにもならないはずです。ちょっと話が逸れますが『運が悪い』という人は成長力に乏しい人物だと私は思っています。

ああまた前置きが長くなってしまった^^;; まぁそうすると残りは物質的環境と能力になるわけです。で私は昔はまぁこんな式で考えてたわけですが、最近思うのはP(物質的環境)はAから完全に分離できないと考え始めました。要するに環境を整えるのも必要な才能だと。これまでにもたくさん存在したと思うのです。能力はあるが作品に出来なかった天才が。もちろんここで言っているのは『俺はいつかでっかいことをやるよ』と言っているような人のことではありません。純粋に絵の具がなかったり、削る石膏が存在しない世界に生まれたり、またはそういったものを発表する媒体自体が存在しない世界に生まれたり。例えばCDを出すためにはCDプレイヤーがたくさん出回っている世界でないといけないでしょうし、そのためのお金も必要でしょう。物理的なものに変換できなかった才能もたくさんあるはずなんです。P=0なら必然的にV=0です。作品が出来上がってないんだから、才能の評価自体も存在しない。当たり前でしょう? こっから逆に考えたんです。『芸術の才能とは、それを作品にして発表する場所を用意することも含む』と。要するにPはAに含まれるべきで、分離できないものなんだということです。

となるとですよ。

俺には才能があるんだけど(ヤル気はあるんだけど)、環境が良くない

なんてことは言えないと思うんです。要するにその環境でする能力がない。これは事実です。だって今現実に出来ていないんだから。才能の多寡やましてや意欲なんてどうでも良いんです。実際に他の人の評価に晒されるものをちゃんと作っているのか。どんな困難があったかなどはそれだけで評価できません。もっと言えば苦しい環境で努力したことでも、結果が小さければそれほど大きな成果にもなりません。これは完全に主観を排除した意見です。つまりこの場合『成功=世の中に支持されること』としています。もちろん成功という言葉やましてや生きる価値などという言葉は非常に懐が広いですから、世の中に支持されることが絶対の価値あること、とはいいません。これは定義の問題です。

環境が変えられるか?なんていうことは私でも疑問に思う。でも出来る人には出来ることで、そういう人が成功するのだと思うのです。で、世の中同じ人間、出来る人と出来ない人に、人間としての差はないと思うのです。ヤル気や覚悟の問題。『さっきヤル気排除したやん!』って思わないで下さい。私が評価するヤル気とは正確には『やった気』です。『会社が嫌だ』というのは言っただけなら私風に言えば嫌ではありません。正確に言えば『会社が嫌だ。でもそうかと言って、他を探すよりは嫌じゃないけど』が省略されているといっても良い。私が評価するヤル気は『辞表を出してまいりました』というようなものです。これは嫌だったんだろうなと本当に思う。だってやめてるもん(この例えは学校には当てはまりません)。『私のこういう部分がキライ』という人は実際はキライじゃないんじゃないかと思う。だってそのままなんだから。嫌ならやめればいい。自分自身が嫌だと思ってることなら、大概周囲も嫌がってる。それが簡単に出来ないから困るんだろう!っという読者のお叱りや呆れた顔が目に浮かびます。しかしだからこそそれが出来た人を『天才』とか私達は呼ぶのではありませんか?

これは間違っても先天的な話をしてるのではありません。誤解しないで下さい。というかよく読んでいただければその反対だとわかっていただけるはずです。『何もしないうちから天才ということはない』ということです。天才はあくまでも結果です。それ以前に確定しているのではなく、あくまでも今の努力の結果です。

私の親友に最近事業を始めた人がいます。その人は同業者と話をするときに、必ず『年収いくらか』ということを話題にするそうです。いわく『お金が全てではないことはわかっているし、自分自身もそのつもりだけど、自分がどれだけ頑張ったかを客観的に評価するのはやはりお金しかない』。お金を稼ぐのは大変なことです。その苦労したお金を頂戴するというのは並大抵の努力ではありません。誰かが1万円を払ってくれた仕事であれば、その仕事は都会のコンビニのバイトの10時間分の労働に相当します。それだけをそこにつっこんでも良いと考えてくれている(もしくは何も考えていないこともありえますが…)。これは確かに客観的な評価足りえると思うのです。

もちろん給料明細や貯金の残高で人生の良し悪しが決まるなんて絶対に思いません。ただ私は評価の中心を自分自身に置くことが良くないと思うのです。なんでも評価は形になって現れたことに対してのみ、行なうべきだと思うのです。どんなに良い試合でも負けは負け。どんなに一生懸命やっても成績が伸びない場合、その成績はその成績です。『お前は家庭環境が苦しい中よく頑張っているから10点プラスだ』なんてこと、ありえないでしょう? だいたい誰が『家庭環境が苦しいか』を客観的に考慮できますか!

だからね。環境を整えるのも、整わないなら整わない中でどのようにしたら結果が出せるかを工夫することも、才能の一部だと思うのです。無論これは『恵まれた』環境の人に比べたらかなりのビハインド。しかし再三書くようですが、ビハインドがあると誰が認定してくれて、手加減してくれるのですか?

それはないぞ。きっと。


 
2008/10/22/水
わぁーーもうしくじった! 私今までずーーーっと間違った方向に考え方を進化させて来てたかも。いやまぁ月並みだけど正解はないので間違いでもないんだろうけど、少なくとも私から見ればしょぼい方向に考えを進めてきちゃったなぁ。。。

大学時代に森林保全の講義を受けたんですよ。そん時に教授は『焼畑なぞけしからん!』と言ってて、私はそれについてのレポート提出を課されたとき、『地球レベルの話なら森を焼かないけど、もし僕がその地方の人で、焼畑をしなければ家族とかが飢えるというのなら僕は焼きます』と書いたんです。で結果は不可(そのレポートは『だから問題の本質は経済的な部分にあるのではないか?』と書いたんですけど)。


考えてみてください。


見知らぬ国で見知らぬ人が死ぬのと自分の愛する人が死ぬの、どっちが嫌ですか?


私は、憚りなく告白しますが自分の愛する人が死ぬのが嫌に決まってると思ってた。というか今でもそう思ってしまう。だって実際9.11のテロのとき、恐怖はしたし、怒りなのかなんなのかはわかりませんが、とにかく動揺しました。でも涙は流さなかった。悲しい事件であったことは間違いありません。でも泣かなかった。なのに私は知り合いが誰かに騙されたとき、大いに憤り、どうしようもない理不尽さに涙が出た。こんなの9.11の事件に比べたら、比べることがどうかしてるんじゃないかと思えるものなのに。でもその時の私はそれが本心だし、自分が何もしないのをわかってて、『悲しい事件だった』などと大騒ぎする気にはなれなかった。私にとっては地球の環境より家族が大事だったんですから。

あまつさえ、『偽善者にならないで済んだ』とまで思ってた。



この考え方はダメだ。

何が偽善者なんだろう?

よく募金に意見する人がいます。それこそ偽善者っぽいって。だけどこれってみんな考え方が内向きなんじゃないかなぁ。自己中心的。自分自分。募金ってお金を寄付する行為でしょ? そこになんで『自分の評価』が入るのか。誰かのためにする行為であって、自分のためにするもんじゃない。それに実際募金を受ける人の方からすれば、ぶっちゃけどん人がくれたかなんて本質的には関係がない。犯罪で得たお金とかなら別ですが。

話が飛躍しているようですが、自分が良くなるように自分を鍛えるのは間違いなんではないかと思うのです。周りが良くなるように鍛えるべきなんでは? 上の質問に答える形で言うのなら、『他人も恋人も死なない』方法を『なんとしても』探すべきだったんでは?