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2009/12/15/火      
自分に協調性がないことに気がつきました。いまさらか!と自分で思うのですが、本当に今実感しているのだからしょうがありません。

私は自分で協調性がある方だと思ったことは正直なところ、あまりありません。昔から理想屋だとか、独善的とか言われて育ってきていますし、実際そういう部分がたくさんあるんだと思っています。なので協調性がないという事実自体は、私にとってそれほど新しいものではありません。

この頃思ったのは、『協調的』という言葉自体を勘違いしている程度に重症だということです。

私は協調的というのは、『周囲の人々の意見を聞くこと、考慮すること、加味し、必要であれば自分の意見も変更し、みんなと折り合いをつけながらやっていくこと』のように思ってました。


私も歳をとりましたので、周囲と意見が衝突したりする場合、なんらかの権利的決断、要するになぁなぁでは済ませていただけないようなことが段々多くなってきました。したがって話し合いなどを持つワケです。まさにその時! 私の『協調性のなさ』が如実にあらわれるのです。

私の『話し合い』というのは『私の意見』と『他の人の意見』の調整くらいのもんでしかない。それも話し合いの一種であることには違いありません。しかしそのときの態度が前述の『周囲の意見を聞くこと…』程度なんです。要するに決定権はあくまでも自分にある。

これは責任を自分に帰するものとして、あるいは立派な態度なのかもしれません。実際根が無責任野郎な私は、自分にない要素としてそれを強化するべく努めてきたというところもあります。これに対し最近の私は協調性っていうのは、そういう議論に表れないようなものなんじゃないのかということなんです。

話の具体性が薄れてきたのでわかりやすく書きますと、私はまるで会議の議長のような態度で周囲のみんなに接してきたということです。私にとって協調性とは『少数の意見も無視せず、意見の出ていない部分の議論も深めて決定を下す』ような態度だったんです。ポイントは『議長』であって、参加してないんです。取りまとめてるみたい。えらそうと言ってもいい。


じゃあ協調性ってなんだ?ってなると、ばかみたいな話ですが、本気で『これだ』というものがありません。それくらい重症。なのに違うってわかるのか?って言われそうですが、それは周囲の反応や、自分自身に残されたその『協調的会議』の後の不愉快さが証拠。しかし『参加していないようだ』と思っても、実際上は組織にも『参加』していますし、友達にしたって『また十兵衛がおかしなことを言い出した』程度にしか思わないでしょう。素直とか誠実とか、率直とかアサーティブな態度が悲しいほど欠けています。

だから自分の気持ちもどう表現したら適切なのかがわかりません。たとえば自分の希望のために、他の誰かに何らかの負担を強いる場合、『上手に伝える』ことが出来ない。『あなたにとっては不利益だけどやってくれないか』とか『○○してほしい』とかを、自分の希望としてしか伝えることが出来ない。あくまでも自分は自分で、希望も要求も自分のもので、一見相手を尊重しているように見えるのだけれど、それは自分を尊重してもらうための交換条件のようなものだし、相手はまるで私に協力してくれないことが前提のような不信感に満ちた、自信のない、弱々しいものでしかない。こんな態度で提案されれば、『Yes!』とは言い難い。


協調性って周囲と一緒に生きることなんじゃないかと思う。生きるからにはより良く!とかなると、じゃあこっちの方が…とかになってしまうからそうじゃなくて。ただもう是も非もなく一緒に生きていく、一緒にいる時間が長いから、お互い素直になれるし、参加もしている。結論を出そうとする態度、それが協調性と反対方向の態度で、私はそれをずっとやってきた。今もそういう結論を導き出しました(笑


でも私の思考法は、こういうことで進化してきてしまっていて、他の事に向きが変わらない… いや、今思ったんですが、協調性というのはある関係性のことで、そもそも単体としては成立しないものなのでは? つまり『考えて』いるうちは、どんどん遠ざかってしまうものなのでは? でも無責任でもなく、考えることもなく生きるってどういうものなんだろう。



『無心に、無為に生きる』



やっぱりこれなんでしょうか? 向上心とか、役に立ちたいというような、一見すると良さそうな言葉がかえって私を生きにくくしているんでしょうか。

言葉ではわかってるつもりなんですがねぇ。
流砂のようにもがけばもがくほど、脱出できない感じがします。





身をゆだねる勇気、絶対的信頼。



これがないな。きっと。